このサイトは中村歯科医院についてもっと知ってもらうことと、
歯の大切さについてもっと知ってもらうための情報公開サイトです。
中村歯科医院は小児歯科に力を入れております。
託児施設も充実しておりますのでどうぞご利用ください。
ホワイトニング、ガムブリーチなど随時情報更改中です。


メンテナンスルームのご紹介

診療時間 午前 午後
月〜金 9:00~12:30
(初診最終受付12:00) 
14:00~19:00
(初診最終受付18:00)
9:00~12:30
(初診最終受付12:00)
13:30~18:00
(初診最終受付17:00)
9:00~12:30
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(初診最終受付16:00)




中村歯科医院

 
〒176-001
1練馬区豊玉上1-10-6鈴木病院前☎03-3993-8823
中村歯科医院ではメール相談を無料で行っております。本院で受診されたことのない方でもご遠慮なくご相談ください。 mail@6480.co


院長紹介



中村雅史


国際歯周内科学研究会会員
練馬歯科医師会会員
開進第三中学校校医
日本小児歯科学会会員
日本一般臨床医矯正研究会
(J.O.S.G)会員

史翔会中村歯科医院院長 中村雅史

「ありがとうがこだまするはいしゃ!」それが史翔会 中村歯科医院です。

中村歯科医院の治療理念

中村歯科医院では
●スタッフの姿勢がその歯科医院の空気をつくると考えております。
●スタッフの笑顔が空間に和やかな波を起こすと考えております。
●スタッフの声が受診者の心の健康ランクを上げると考えております。
●スタッフの気配りが受診者からの気持ちのサインを見落とさないと考えております。

中村歯科医院のスタッフは、受診者のお口の健康ランクのレベルアップと笑顔を求めて、もし患者さんだったらしてほしいと思うことに気を配り徹底しております。医療の良心に照らし合わせ、望まれないことは極力しないよう努めております。そして、常に「それは中村歯科医院らしいか」を意識して、少しのミスも許さないというプライドをもって診療いたしております。
常にプラス思考で、心のコップを上向きに!歯科医療のレベルアップのためにただ人の真似をするのではなく、自分自身の魂のこもった診療に精進したいと常々考えております。

中村歯科物語(中村歯科医院院長中村雅史の生い立ち)幼少時代





杉並区下井草育ち。
3人兄弟の末っ子としてかなり甘やかされた感が。
じっとしていることがキライでとにかく遊びまくりました。当時下井草にはまだ空き地が多く悪友達と探検ごっこに明け暮れていました。かなりのガキ大将ぶりでした。

この頃は人工甘味料『チクロ』(後に発がん性などの問題で発売禁止に!)全盛で、情けない話ですが私も歯医者さんのお世話に。ただ近所の歯医者ではなく電車で通院していた記憶があります。なぜに?母から聞いたのですが近所の歯科医院で治療を受けていたところ、治療時のあまりの痛みに耐え切れず先生(通称おばさん先生)を蹴飛ばし(!)入院させてしまった(!!)からだということ・・。そんな自分が後に歯科医師になるとは・・。

ガキ大将ぶりは収まるどころかさらにヒートアップ!
幼稚園の頃ですがなぜか度胸試しという話になり、級友にけしかけられるままにガラス戸に頭から突っ込んでしまいました。馬鹿です・・・。
ガラスは部屋中に飛び散り、頭からは血が噴水のように(まるでマンガのように、ピューッと・・)噴出すありさま。その後救急車で病院へ搬送される騒ぎに。
もしかしたらこの世に私はおろか娘たちも存在していなかったかもしれないと思うと・・。今も残るそのときの傷を見ると軽率な行動は控えるべし!心に誓うのです。まさに命を懸けた教訓デス!

運命の出会い



小学校の頃の遊びって皆さんは何を思い浮かべますか?私の場合はゴルフごっこ、ぽっくり(かくれんぼのことです)など、本当に遊びの天才でした。
当時いつも一緒に遊んでいた辻井君。いい相棒でしたがある日を境にいつも決まった時間にお母さんが迎えにくるようになったのです。一体どうしたのか?何が起きているのか?僕になにか落ち度でも?などと悶々としていたのですが、何のことはない、彼はある団体に所属していたのでした。

それは『杉並リトルリーグ』。

恋人(遊び相手)を奪われた私は敵地を視察するべく、母親に頼み見学に行くことにしました。
リトルとはいえ侮る無かれ!小1の私にとっては2~30cmも背丈の違うお兄さんたちの迫力ある練習に圧倒されてしまいました。そんな私のところになぜか監督が歩み寄り、
『どうだ!一緒にやってみるか?』
思わず私は
『う、うん』
それが野球との出会いでした。


リトル時代

杉並リトルリーグは結構名門チームで所属する城北地区ブロックでは敵なしでした。4年生までは先輩たちの邪魔にならないように基礎練習ばかり。ただそのおかげで野球の動き、センス(?)が体に叩き込まれたように思います。

5年生になったところでレギュラーに!がんばりました!「1番センター、中村くん」でした。そしてその年から開催されることになった関東大会へ出場。試合会場はなんとあの神宮球場です。
1回戦
奇跡の大逆転で勝利!今思い出してもトリハダものです。
2回戦
当時最強の名を欲しいままにしていた調布リトルリーグと対戦。
とにかくいい試合をしよう!そんな感じで臨んだ試合でしたが所詮子供同士のやることです。終わってみれば4-2で勝利!勢いとはすごいものでそのまま第1回関東大会優勝です。当時の朝日小学生新聞の1面を飾ったのでした。

最上級生になった年は「1番セカンド、中村くん」で城北ブロックに臨みました。
やはりメジャーでも杉並は名門でしたので、勝ち進みました。身長も伸び始め長打も出てき始めた頃でした。
あるとき自分がホームランを打ち大量点で勝利した試合後のミーティングで、監督から褒められるどころか『ホームランを打つ1番はいらない!今度ホームランを打ったら試合に出さないぞ!』と突拍子もないことを言われたのです。その時はそれが何を意味するのかなど、あまり気にしないでプレーしていました。そして城北ブロックの決勝戦、大差で勝利目前、ついに交代させられ初めてベンチで勝利を迎えました。その時『このままでは関東大会に進んでもいつか試合に出られなくなるぞ』と監督にいわれました。どうしてだろう?6年生の僕には監督の考えを知る由もありませんでした。

そんな中、関東大会の1回戦緊迫した場面での第3打席、何とか2塁ランナーを帰そうとファウルで粘った後の打球はライナーで左中間の奥深くへ・・・ボールはなんとフェンスの上に当たりスタンドへ、2塁ベースで止まっている自分を監督コーチは『ホームランだ!ホームランだ!中村戻ってこい!』監督の猛抗議でホームランに認定されました。
あっ!ホームランを打ったからまた交代させられる!本気でそう思いました。しかしながらそのままセカンドを守り続けることができたのです。
試合に勝ち、その後のミーティングで監督が『ランナーを進めようとチームバッテイングに徹した結果のあの中村ホームランが効いた!野球の試合は9人でやるもの、1人1人役割分担がある。』と諭すように言ったのです。
思えば、ブロック予選での自分は1番打者の役割なんか考えずホームラン病に取り付かれたブリブリ振り回す4番打者のようでした。チームメイトから顰蹙を買っていたかもしれません。それを見越した監督のお灸だったようです。

準決勝では後に早実、早稲田大学のエースとなる石原君擁する優勝候補の狛江リトルリーグとの試合でした。劣勢でしたが一時同点となるホームランを打ってベンチに戻ると、ベンチの1人が大泣きで抱きついてきました。試合に出られない田辺君でした。どちらかというといつもは試合に出られないのになぜ俺たちの分までもっとしっかり仕事をしないのだ?と先頭たって発言していた人だったのでびっくりしました。結局試合には負けました、野球のゲームは9人でするものですが野球はチーム全員でするものだと肌で感じることがはじめてできました。何にも知らない生傷の耐えないガキ大将は野球を通じて社会生活の基盤を少しずつ学んでいったのでした。

話は少々横道にそれますが、絵についての思い出があります。中村家には中学校の絵の先生、エレクトーン奏者はては漫画家まで芸術を生業としている人間が多いです。かくいう私は絵を描くことが好きでした。
・フジテレビ小川宏ショーにUFOの絵で出演
・プロ野球ニュースにて選手の絵が2回採用
・中2で描いた大樹の絵はオーストラリアのコンクールへ出展
と輝かしい(?)経歴があるのですよ。
ただ、その後あるときを境にイメージとおりの絵がまったく描けなくなってしまいました。小さい頃神童と呼ばれた人(おこがましい!)が成長するにしたがい平々凡々となってしまったりしますが、自分の才能に限界を感じこのとき引退(笑)を決意したのでした。ちなみに中村歯科のマスコットデザインは私です!(笑ったあなた!ですからもう引退したと・・・)

閑話休題




転換期

中学生になるとシニアに上がって野球をやっていたのですが、とにかく小学生1年生からリトルリーグ一筋で、土、日は練習か試合、髪の毛はいつも坊主、さすがに抵抗を覚えるようになりました。思春期ドまんなか!だったんですね。学校の成績もどん底まで落ちてしまったこともあったのですが、1年から2年にあがるころシニアをやめる決心をしました。

そこで今でも付き合いのある親友の福地君の所属していたバスケットボール部にほんの軽い気持ちで入部しました。今思えばこれが大きな転機だったと思います。
小学校のとき校内マラソン大会で2位、水泳の25m背泳で区の新記録を作り、中学校の走り幅跳びでは3年間連続優勝と誰よりも体力、運動神経に自信があった自分でした。他のスポーツでも何とかなるだろう!なんて甘い考えを持っていたのは事実です。しかしながらごくごく当たり前なのですがスポーツをやるにあたってやはり重要なのは基本なのです。

1年生のときにみっちり基本をたたきこまれた同級生たちにまったく歯が立ちませんでした。
また同じ学年の部員は7,8人いたのですが所謂学業のほうでは秀才軍団で、なかなか仲間に入っていくことができませんでした。このままでは自分の居場所がなくなる!という危機感からバスケットも学業も真剣に取り組むようになり、なんとか高校へいけるくらいの成績にはなりました。(追い込まれると強いのか・・?)
バスケットも元来低くはなかった身長が急激に伸び、技術はなくても飛ぶことには絶対の自信があったこともあり(リバンド専門として?)2年の夏からレギュラーとして試合に出られるようになりました。その頃にはチームの皆も仲間として認めてくれるようになりました。秋の新人戦では杉並区民大会で女子と共にアベック優勝を達成しました。しかしながら春、夏、都大会への切符は得るものの常に2位止まりでした。

高校は私立独協高校に入学しました。兄(内科医)の卒業した高校です。
当然バスケットボール部に入部しました。中学のときとは違って自由奔放なクラブでした。2年生のとき3年生がまだいるというのに主将兼部長に任命され、初めて人をまとめる側に回りました。中学生合わせると50~60人くらいの大所帯でしたからユニフォーム製作、合宿所の選定、予約等々副部長の星崎君らと気の遠くなる程忙しい日々が続きました。
大会のほうはコーチもいなく顧問が来ないことなどがしょっちゅうあって相手チームの顧問からよく怒られました。
そんなとき『責任は自分がとりますので試合をさせてください!』って、何かあったらどう責任を取るつもりだったのでしょう(笑)?中身はないくせに責任感だけは強かったように思えます。



野球ふたたび

大学では野球部へ入部。高校とは違い部活はバリバリ社会人モード全開の厳しいものでした。挨拶の仕方1つとってみてもそれはもう・・。先輩のユニフォームの洗濯、グローブの手入れ、マッサージから酒のつきあいまで。野球をしたくて入部したのになぜ酒を飲まなくてはいけないのだろう?それはもう葛藤の毎日でした。
ちなみに1年間で体重が10kg増加!これは筋肉のついた大人の体になったからです。(今の体型はむにゃむにゃ・・)そして精神的にも強く大人になったときでもありました。
在校中の戦歴はというと
1年生
なんと我が野球部は全国大会優勝!
私も準決勝の時1回だけマウンドへ。貴重な体験でした。
2年生
なんと私がエースピッチャー!
全国大会へ臨みましたがベスト8の壁は越えられず・・。
3年生
なんと1回戦敗退!
・・・・・。
4年生
なんと準々決勝で惜敗!
対戦相手の九州歯科大学(九歯)はその大会優勝・・。
5年生(留年ではないですよ、念のため・・)
なんと因縁の九歯にまたもや準々決勝で惜敗!
九歯2年連続優勝・・。
最後の大会
なんとこれまで対戦で負けなしだった日大に準決勝で惜敗!
その日大が優勝・・。

何の因果か対戦相手がことごとく優勝・・・涙ナミダです!

物語は続いてゆく

国家試験に合格し臨床研修生として大学の総合診療科にて1年間研鑽を積みました。
その後花小金井歯科では逸見先生の師事を仰ぎました。現在村岡(逸見)先生が理事長を務められる東上野歯科クリニックはORICONランキング第1位(!)です。とても大きな目標です。
さらに大学の野球部の先輩で江戸川区に開業されている三浦先生の下で約5年間腕に研きをかけました。ここでは大学では教わりきれなかった患者さんにものすごく近い臨床を体験することができました。と同時に社会というものの仕組みを様々なカタチで教えていただいた5年でもありました。(本当に色々なことがありましたぁ)
これらの経験が今の自分を支えているのは間違いありません。本当に感謝しております。

そして平成6年長女の誕生とともに練馬区の江古田に初代中村歯科医院を開業しました。当初は妻の佳子と一緒に本当にがむしゃらに仕事をしました。
余談ですが妻と知り合ったのは高校2年生の秋の文化祭のことで、思えば人生の半分以上(!)を一緒に過ごしたことになるのですねぇ。現在3人の娘に恵まれ(力行幼稚園では中島園長大変お世話になりました!)大きな病気をすることも無くのびのびと育ってくれているのも妻のおかげです。偉大な妻に感謝、感謝です!

さて、その後はおかげさまで患者様も着実に増えていき、現在では名門開進3中の校医をお任せ頂くまでになりました。まだまだ、道程半ば、これからも家族や医院のスタッフの手を借りながら皆様のお役に立てるよう、これからも精進あるのみです。

これを書きながらふと感じたのは自分1人では何もできていないのだなぁということです。大勢の方のサポートの上に今の自分があるのだと・・。

みなさん、これからもお力添えよろしくお願いいたします